『自分の人生には、何円くらいの価値があると思いますか?』

「――え、何だって?」

そんな声が返ってくる。まあ無理もない。こんな問いかけにタイムロス無しに具体的な金額を回答する人間のほうが少数派だろう。だからこの反応に私はあくまで寛容だ。
ちなみに、これは私のお気に入り小説の一つ、『三日間の幸福』の冒頭で登場する問いかけだ。図書館にも配架されているので、ぜひ手にとって見て欲しい。

私は今、専攻科に通っている。高専という特殊な環境での生活が始まったのが15歳。今はというとそれから5年と少し経って満20歳。その期間中に選挙権が発生したり、飲酒可能になったりした、などというと大層なことに聞こえるが、実際は5年と少しの年月を過ごして順調に老いているだけのことだ。専攻科1年生というのは大学でいうところの学部3年生にあたる。だから高校1年生相当であるところの本科の1年生にはさぞ「おじさん」に見えているだろう。いや、気を遣わずとも良い。何を隠そう、1年生当時の私の目に映った専攻科生というのは、紛れもなくそうだったのだ。

この6年間は本当に驚くほどあっという間だった。ふと気づけば中学時代からの友人が受験だ大学だと言っていたし、気づけば自分自身が本科を卒業していたし、今だって気づけば2年間しかない専攻科の1年目がその半分を終えて、2017年もあとがきの様相を呈してきている。

何もしていなかったわけではない。
そう、例えば1年生の頃にICT委員会に参加した。入学前、すなわち中学生当時から「技術を学んで立派なプログラマになりたい」という夢があったわけではない。当時、早くに仲良くなった同級生が言った。

「パソコンをカタカタする学校で、パソコンをカタカタする部活が有るらしい、面白そうだ」
「そいつは良い。早速説明会に行こう」

こんな具合である。決して褒められた意思決定ではなかった。それでも「参加」という結果には至った。何かを始める切っ掛けはどんなものでも良いと思っている。それが良かったか悪かったかという議論は、始めてからすれば良い。

話が逸れてしまった。
当時入って何をしていたか思い出すため記憶を遡る。サイコロを数えた。お馴染みのM教材はうさぎと亀のレースを見守るカタツムリ、くらいのペースで進めていたような気がする。そして2年生の時、幽霊部員になった。おや…?回想の雲行きが怪しい。この話はやめよう。

冗談混じりの話ははさておき、私は1年生の頃どちらかと言うとプログラミングよりもWebサイトの作成という娯楽にハマった。敢えて「娯楽」なんて言い方をしたけれど、当時の私にとっては時間を忘れて――実際夜が朝になっていたこともあった――キーボードを叩き続ける、人生で初めての経験だった。訳の分からない呪文を、黒い画面に、慣れない手つきでひたすら打ち込んでブラウザで開く。するとそこに「世界でたった一つだけ」のWebサイトが姿を見せる。たまらなく新鮮で爽快で、素晴らしい体験だった。

幽霊部員になってから3年生くらいまで、Webサイト作りに没頭した。一人複数役のチャットや、誰得ニュースサイトもどき。そういうガラクタを積み上げて、ある日、テスト対策を主名目としたサイトを立ち上げてPDFやノートの写真をホスティングした。それなりにウケが良かった。と言ってもサイトの使い勝手とかデザインとか、そういうところではないだろうが。そんなことは問題ではない。

「自己満足に浸るだけ状態」だった私は「人に見られる・使ってもらうこと」を知った。

2年生になってからは学生会の広報局という局に所属していたこともあって、校内行事の特設サイトを作ったりもした。それは4年生まで続いた。その他にも、Twitterのbotだったり、アンケート集計のアプリだったりメールクライアントだったり色々と「誰かに使ってもらいたいガラクタ」を生成し続けた。
それを見たり、使ったりしてくれた人から意見をもらえることがあった。「面白い」「すごい、楽しい」といった言葉に舞い上がり、「重い」「見にくい、使いづらい」といった言葉で反省する。このような浮き沈みは、プログラムを公開しないことには体験できない。何かプログラムがあった時、それが神プログラムになるのも、はたまたクソプログラムになるのも、全て公開された後の話だ。あらゆるものは評価されて初めて認識される。

勘違いしないで欲しい。私は何も「公開せずに一人で作り一人で使うことが悪だ」と言っているわけではない。あくまで、「公開することによって、そうしないことと比べてこう違うのではないか」と持論を述べているに過ぎない。一人で作って満足していた時代の成果というのも見えない形で、つまり自分のスキルアップという形で確実に活きている。

「それで、君は結局何の話がしたかったんだい?」

そう思われても仕方ないな、と一旦思考を落ち着ける。
言語化に失敗し、脳内に取り残されてしまった電気信号が、話が長くなるに連れて蓄積されている。良くない癖だ。

「でも君がそう感じられるのも、私が記事を公開して、それを君が読んだからなんだよ」
「無茶苦茶だなぁ」

認識されるためには評価が必要だと言った。
人生もそうなんじゃないか、と思う。誰かが自分を評価することで、認識され続ける。「自分を覚えている人がいなくなった時、人は本当に死ぬ」というのはよく聞く主張だ。それが良い評価か悪い評価かということは、さしたる問題ではない。認識されている間、自分を認識する誰かの中で生き続ける。

インターネットで世界中と繋がる現代、認識されるハードルは昔に比べて遥かに低くなった。今や小学生でさえもスマートフォンを自在に操り、世界にその足跡を残すことができる。

『自分の人生には、何円くらいの価値があると思いますか?』

冒頭で小出しにした小説『三日間の幸福』の中では、その原題『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』にもある通り、主人公は「一年につき一万円」という寿命の査定を受けるシーンがある。
自分はどうだろう?自分の人生がいくらであるか、自分一人では分からない。だが、全ての人は評価(小説内いう査定)を受ける権利を等しく持っている。

私はこれからの人生においてもきっと、その権利を副次的に行使する。作りたいと思った時にガラクタを作り、それを公開する。
そうすることで私は今日も、そして明日からも生を実感していく。

おわりに

こんばんは、wassan128です。
この記事はICT Advent Calendar 2017 24日目の記事になります。
今ハッカソンからの帰りの機内でこの文章を書いているのですが、悪天候のせいか、離着陸前後にめちゃくちゃ揺れていて怖いです。あと酔う。

実はAdvent Calendarという文化に参加すること自体が初めてで、「何々Advent Calendar N日目の記事です」という文言をブログに書くだけでも緊張で手が震えてしまいます。それなのにこんな駄文を書いてしまったのはきっと夜だから。そう夜が悪いのです。僕はそんな夜が好きです。

明日はこのカレンダーの火蓋を切ったその人、委員長の記事です。一日目の記事は「世の中ままならないですよね、ママだけに」などと言いながら読んでしまい、申し訳ありませんでした。次の記事はきっと真面目に読みます。
以上です、駄文にお付き合い下さりありがとうございました。